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 昭和54年 3月19日  朝の御理解


御理解 第36節  『日本国中のあらゆる神を皆信心すると言うが、それは余りの信心じゃ、人に物を頼むにも、一人に任すと其人が力を入れて世話をしてくれるが多くの人に頼めば相談にくれて物ごと らず、大工を雇っても棟梁がなければならぬ、草木でも心と言うたら一つじゃ、神信心もこの一心を出すと直ぐ、おかげが受けられる』


 自分が尊ぶ、自分が有難いと思う神様、言うなら自分が信じておる神様だけを大切にして、他の神様、仏様をあなどってはならない。藪神、小神の前を通っても一礼をするような心持ち、と言うふうに教祖が教えておられるものを感じますですね。そこで、その決めよ、と言われても私共が決める。その対照とする神様がどのような神様なのか、また教祖という方はどういうお方であったのか、と言う事をまず知り確かめなければ決められません。またそこに決まったものでなければ本当なものとは言えないし、また最後に一心と定める、ということも出来ません、ね。
 合楽ほど教祖金光大神を、そして金光大神が頂かれた天地金乃神様を、も無類の宗教、宗教以前の宗教、これは前代未聞の事だ、と。開闢以来初めてのことだ、と言うふうに口で言うだけではなくて、もう理路整然と道理を説き明かしておるところはないのじゃないかと思います。他の宗教のすべてが、それこそ価値観を失う程しの事をね。だから、そうでしょうが、と言うて、言うならば教えとおかげ、いわゆる和道十全の教えで在る、という事を説き明かしておるところはない、と思うのです。それは、おかげ頂くから〇〇様に参っておる。おかげ頂くから合楽にお引き寄せを頂いておる。御縁を頂いておると言う野ではなくて、ね。そこんところを、わかり極めて、初めて言うならば信心に、合楽の信心に傾倒することが出来るんだ、と思うんです。傾倒しなければだめです、ね。迷うておってはだめです。
そこから信心の道を迷わず失わず、それこそ自信をもって末の末まで教え伝えて行け、ね。自信をもってこの神様以外にはないぞ、と。子にも孫にも伝えていけれる。それが伝わっていかなければ、だめ。
 昨日、私はお月次祭終わってから退らせて頂いとりましたら恵城が嫁と一緒に私の部屋へやって来ました。頭に、もういっぱい包帯をしてるんです。その前日に兄弟とごえよってからタンスの角に持って行ってから二寸ぐらい深くうち切っているのです。もう大変な血が頭のことですから出たそうです。
昨日初めてとのことのお届けがあってから私の部屋へやって来たんですけども、あの「おじいちゃん僕は・・・・ここ怪我する時に金光様・金光様て言うたよ、と本当に言うたよ」ち言うて私に言うんですだから、そういう傷をしながら一つも痛まない、というわけなんです。
 昨日は夕べ、戎浦さんの奥さんが看護婦さんですから、きれいに傷の手当をしてから頭にいっぱい包帯をして頂いておりました、ね。本当に金光様・金光様を言うたよ、と言うならば子供が孫がそういう信心を、も、それこそバッチリと受け止めれる。受け止めさせれれる信心を、ね。お互いしなきゃいかん。それには、ね、んなら絶対信のものが、なからなければ伝わっていかんのです。
 いかにも合楽が素晴らしいとか金光様の信心が有難いとか、と言っておるけども今日私は皆さんに聞いて頂こうとしているところをです。本当にそうだ、と確信される。どう確信するかと言うとそれこそ前代未聞の事である。開闢以来のものである。宗教以前の宗教である。言うならば今お道の信心、来ん光大神の教えをです、ね。和道十全の教えとして、いわば高めるだけ高めた、言うならばおかげと論理とが一つの一体となって、日々合楽のご比礼があり皆さんが受けておられる教えがそれである、と言う事をね、確信する、ね。
 だからあの神様、この神様と勿論言うこともいらないわけ、ね。軽蔑とかあなどるとかと言う事じゃないけれども、この教えを頂くと、ね。金光大神一本にせよ、と言うて言わんばかりに教えておられます。しかもその一心を出さなければ、おかげにならん、と言うておられます、ね。おかげにならんという事は御利益という意味じゃないと思うですね。これは、ね、私共がその気にならなければね。どんなに合楽理念が説かれてもです。その気にならなければ体得する事はでけんです、ね 例えば天津祝辞一巻でも大祓一つでもです。その気にならなければ、それこそ十年も参りよるばってんまだ大祓も一人じゃ上がらん、という人がありますからね。いかにそれが覚えようという事に対する熱意がないか、という事を思います。
 それは、もうどんなささいなことでも、私は特に頭が悪いからですけれども、私の部屋は、家内と私の部屋が二つになっております。ですから、その二部屋に電気が・スイッチが二部屋についてるんです。どうしてもどっちが自分の部屋のつかが今にわからんです、私はこれは本当です、ね。こげな簡単な事はないでしょうが、上のつが私の部屋、下のつが家内の部屋と、例えば言うふうに、きちっとそれを本気で私が覚えようと思えば、いくら頭の悪かでん、こんくらなこつは覚えられんことは、なかばってん、覚えようとは全然思ってないからです。
 もうそんな事はどうでもよい、と思ってるからです。それで自分の部屋をつけなきゃならんとに家内の部屋のつをつける。あっこりゃ、まちがってた、と思ってまたつけなおす、まあ本当にこの位、頭の悪うなったら、もう本当に最高だ、と思うです、ね。もう、そのかわり、神様のことばっかりしか頭になか、だから事、神様のことなら何十年前のつでん覚えとる。ちゃんとね。問題は一心なんです、ね。
 昨日も久留米から秋永先生以下会合に出られてね。布教推進委員会、ね。帰ってから話しておりましたが、もうとにかく今の合楽で説かれてる事が、もう本当に、こんな素晴らしい事をいくら例えば、言うても皆がわかりません、ち。今まで自分のものでいっぱいだから。だから私はこう思います、合楽ではこうしとります、だからあんた方もこうしなさい、ちはもう全然言わんことに決めました。言うたっちゃわからんち、ね。合楽はこげんしよります、合楽の先生はこう教えられます。私はこう思います。だからこれを、あなた方に押しつけるわけじゃない。ところが、それの方がかえって皆が理解してくれるようになります、と言う程しに今の合楽で説かれたおる信心は、ね。それこそ十全の道が教えが説かれておるのです。だから皆さん本気で覚えよう、という気にならにゃだめですよ、ね。
 そして、それを実験して実証して、成程、親先生が言う通りだ、という事に成るのです、ね。もう、ね。昨日私はお月次祭の中に福岡の伊藤わんと川上さんの問答を一寸聞いて頂いたんですけどもね。私ども今度韓国行をやめた、と。皆に、わかった時に二人の電話での問答です、ね。伊藤さんが言われるのに、ね。韓国行は取り止めに、それは取り止めになるのが当然です、と、もう、ね。親神様は、もう朝鮮に行っておられます。私がお土産まで頂いとるのですから、お行きになる必要はないです、と。ところが川上さん、その意味がわからないわけです、ね。だから川上さんは親先生として信じげござる。ところが伊藤さんは親神様として信じてござる、ね。丁度、ま、友人の方が韓国に行かれて、いろいろと韓国のお土産を下さったそうです。そのちょっと私共韓国行の話しが出る前後してから、ね。だからその友人から頂いたのじゃない親神様からいただいた、とこう信じておりわけです。
 だから、もう親神様は韓国においでる必要はないんだ、と、ね・私は絶対信とはそれだ、と思うです、ね。も何一つでも神様の御物という事はそれです。神様から頂いた、神様からのお預かりもの、言うならば、ここば言うなら一番まちがいのない言うならば何ですか。あの的、という事になりましょ。絶対のものですね。だからそれに向ってこう弓矢なら弓矢の稽古をさせてもらい、なかなか百発百中というわけには、まいりませんけれども、段々信心の稽古をさせて頂き、言うなら絶対のものへ向かって稽古をさして頂いてるうちに昨日の朝、頂きますように年期が入ってくるんです、ね。その年期がものを言うようになるです。それも真心一心、それも土台、そのま原点とでも申しますか、になるのもはどこにあるか、と言うと、ね。まず私共が信じなければならない。信じて下さい。私を信じて下さい、と。例えば私が言うてもなかなか信じて呉、と言うても信じれれるものじゃないけれども、ね。合楽で言われておる今の合楽理念、と言い最近の言われておる。言うなら他の宗教のすべてが価値観を失うほどしのもの。そげなこつはなかろう、と言うたら、もう信じてない事になるんです。漠然と他だ、聞いておるだけでは他だ聞いておるだけです。
 だから本当にそれを確かめなきゃいけません。そのために実験しなきゃいけません、ね。そこに実証がうまれて初めてです。言うなら秋永先生じゃないけれども今合楽で言われて折る。これは、もう本当に何と言うですかね。とにかく、ま、素晴らしい事なんだ、とね。昨日一昨日からここの学生会と熊本の学生会が合流して信心、一夜信心研修会をやってます。昨日はここの青少年と一緒に一日もう、私が 3時の研修を終って、その研修を終って帰りましたから昨日は一日研修してるわけです。その引率して来ているま、大学生の或る教会の息子さんだったそうですけれどもね。来てから初めにのっけに言う事はですね。「合楽、というところは、あれは金光教じゃない、と言う事と、も、いろんな、ま、悪口雑言も聞いてきた。または、もう合楽教会じゃなからにゃならん。あれが本当だという話しも聞いてきた。だから言うなら私共が今度参りましたのは、それを確かめたいのですから赤裸々に合楽の信心を見せてください、聞かせて下さい、というのが初めてでした、ね。
 そして、ま、昨日帰りがけにです。ここに、ここで出ております御本を全部頂きたい、と言ったら或る先生がもうこれはお金がいりません、と言われましたけれども、こういう尊い御本を頂かしてもろうて、ただで頂くわけにはまいりません。それでもいらん、と言われましたから、と言うてお初穂をして帰ったんです。もう来た時と帰る時というのは、もう本当に、まあ若いから仕方のない、と私はその時思ったんですけども、もう雑な、そういう事を私共に平気で言う位ですからね。で、昨日まる一日、ここで研修さして頂いて、皆の話しを聞いていくうちにです、ね。これは自分の家も教会なんだけれどもね、ね。もうそれこそ雲泥の差のある事に気づいた、ね。そしていかに合楽教会の信心が金光教じゃない、と人は言っておるけども、じゃなくても、これだけのものがあり助かってる事実というものがあるなら、それでいいじゃないか、といったようなものが結論に出たらしいんです。
 そして言われる事は教祖金光大神の教えを、只深める広める、しかも深めてまいりますと、今日のこのご理解から頂きましてもです。教祖の神様は他の神をあなどってはならない。人の悪口を言ってはならない、と教えておられるけれども。ここに36節には、ね。日本中の神を信心するとか、そげなこっちゃでけん、と、この方一心と定めい、とこう言っておられる、ね。定めるからには絶対無比と言うくらいな神いん、確信です。自分が頂いとる信心が、も、絶対のものだ、無比のものだ、と。そしてそれを、なら、論理の上におきましてもおかげの上におきましてもです、ね。
 とにかく人間が幸福になる、幸せになる、という事のためには、ね。教祖の教えが、いよいよ深められ高められた合楽理念による他はない、と。確信ができなければなりません。それにはまず私共がそれを信じなければなりません、信ずるまえに、まず知らなければなりません、ね。そしてその伊藤さんじゃないですけども、ね。そう言ってのけれるだけの、言うならば確信を合楽にこころを寄せておかなければ私は一心を定めた、という事にはならないし、今どんな素晴らしい事であっても、ね。いよいよ何かの時に迷う。これは上じゃったじゃろうか、下じゃったじゃろうかというような事ではなくて、合楽理念をひもとけば、もう的確にそこに答がでてくるだけのものをです。一つ身につけていきたい、ね。
そこからうまれてくる、言うならば一心であってすぐにおかげが受けられる、と言う事になるのじゃないでしょうか。
 いいえ私は合楽にもう決めとります、と例えば言うてもです。まだ、ね。いよいよ何か、という時にすぐ答がでてこない、とあるならば決めとるだけであって、まだなら合楽を信じてはいない、体得してはいない、という事になります。だからまず、ね。一つ本気で言うならば覚えさして頂こう、と言う。言うならば勉強がいる、という事がわかります、ね。そして、今信じてほしい、と私が思うこと、ね。信じなさいと言うても、なかなか信じれない。だから信じてほしい、と皆さんに願っておるもの、ね。それは言うならば、あらゆる私共が宗教道徳、何々道と言うなら日本では武士道なら武士道、といったような道がつく教えとか稽古ごとがたくさんございます。けどもそういう稽古事とかそういう道がです。どんなに言うならばつまらんものか、と言うですかね。まあ本当につまらんものとわかる、ということ。もう私は此頃からもう武士道なんていう、ね。もう武士道ほど、バカんごたる道はない、ですよ。
『武士道とは死ぬる事と見つけたり』ね。佐賀の、はがくれなんかそう言うふうに言ってます、ね。
 とにかく武士道の教えの中には、人からもし恥かしめを受けたら、ね。自分で切腹をならんごと教えてあるです、ね。言うならば捕虜にでもなったら、ね。自決せよ、と教えておるです、ね。私共もそれがほんなことのごと思うとった、そげなバカな話しはないですよ。
 昨日は、あるところから参って来たが、もう34~ 5ぐらいなられる方ですけれども、もう毎日毎日、死にたい死にたいと言う。そしてその人が、先生私は毎日毎日死にたいち、思いよりますち、こう言う、ね。まるでそれこそ女子(おなご)侍のごたるの、と私は言いました。そりゃあなた岡山から来とんなさるとじゃけん、もう途中汽車から飛び降りたらよかったとこれ、ち、ま、言おうか、ち、思うたばってん。ほんなこと飛び込んだら、どんこん、されんけんでん、ま、申しませんでしたけれどもね。
 も本当に死ぬる事が一番美しい事のようであったり、素晴らしい事のようにあったり教えておる教えすらある位です。もう本当に合楽理念をもってすると、ね。も本当に人間が幸せになっていけれる、しかも、ね。昨日も一寸申しましたように、そのう、夢にも思わなかったような、おかげが展開してくるです。それがすべての、ね。もう本当にすべての点に、そういうおかげを受けられる道なんです。金光教の信心は、ね。それを、なら、わかりやすく説いてあるのです。ですから、それをやっぱどうしても覚えなきゃいけんです。上か下かという事を覚える気になってそれを実験して、それを実証して、そして成程成程という毎日を過さなければ、一心に定めた、という事には私はならん、と思います。
   
                                     『どうぞ』